神道修成派

教庁

東京都杉並区松庵3-15-12
℡:03-3334-2486

本部教会

静岡県磐田郡豊岡村敷地
山上祠℡:0539-62-4088
山下祠℡:0539-62-3428

御祭神

造化三神(天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神)
伊邪那岐神 天照大御神 天神地祇八百万神
以上の神々を総稱して、修成大神と奉稱する。

教典

「修道溯源」「修成道教典」「顕幽略説」

教主

管長 新田邦夫

創始者

新田 邦光(1829~1902)

後継者

二代 新田 邦貞(にった くにさだ)
三代 新田 邦達(にった くにみち)
四代 新田 邦夫(にった くにお)

儀式・行事

大祭(4月4、5日)
教祖教霊祭(11月24、25日)
星祭大祈祷(2月5日)
月次祭(毎月第1日曜日)
月次霊祭(毎月25日)

教史

 教祖・新田邦光は、徳島県美馬郡脇町拝原で誕生。もと竹沢寛三郎といい、幼少より文武両道を研鑽し、脇屋義助(新田邦貞の弟)の子孫であるとの自覚のもとに、19歳頃より諸国を巡遊し、勤王の志士として、粟田宮、岩倉具視、梅田雲浜、橋本左内らと交遊し、嘉永6年には大森の海岸警備に参加している。
 神道家としては、嘉永元年(1848)20歳の時、布教伝道の志を立て(立教元年)、安政年間には京都聖護院村で門人の教化を開始した。
 明治維新に際しては濃飛鎮撫の大命を拝し、門人を率い、王政復古の主旨を説き、戦わずして鎮撫し、飛州高山取締となったが、年貢半減問題などの政治の渦中に巻き込まれ、武州忍城に幽閉された。その半年間の幽閉中、大病に罹るなどの困難も加わったが、神の御加護により生死の境を越えたことにより宗教的回心に達した。そして、赦免されてからは、修成道の教法によって教導に専念することになり、明治二年(1869)、古事記、日本書紀の神道聖典に源由した哲理であり神道神学の神髄である「修理固成光華明彩」の教法によって開教することになった(開教元年)。
 明治6年8月に「修成講社」の創立が教部省より許可され、さらに明治9年(1876)10月23日に一派特立が許可され、以来「神道修成派」の教団名を一貫して用いている。  
 昭和28年4月、本部教会「大元祠」を静岡県磐田郡豊岡村に遷座。昭和51年に御神殿、開教120年にあたる平成元年に大拝殿が大元祠山上祠に造営され、平成8年10月23日に特立120年を迎えることになる。

教義

 神道修成派では、「修理固成光華明彩」を八字の御称号と申し、常に心に念じ口に唱えている。造化三神の御神勅「修理固成」は、森羅万象を立派に完成するのみならず、とくに、天神の分霊である自己の心魂を正しくすることであり、さらに天照大御神の公明正大な御神徳「光華明彩」を体して修成道に励み、幸福な人生、社会を築くことを目指している。
 より磨き、神に習いながら生きることを良しとする。

祭式と祈り

 教義のところで述べたように、神道修成派では、「修理固成光華明彩」の八字の御称号を常に心に念じ口に唱えているのであるが、祭式および祈りにおいても、八字の御称号を全員で奉唱するとともに、「修成道教典」も奏上して、雑々の思慮を洗除し至誠の心を固め、神人合一の境に達することを目指している。その他は、おおむね神社神道の儀式を基本としている。

One Reply to “神道修成派”

  1. 神道修成派 教庁 ご担当者 様

              埼玉県比企郡小川町みどりが丘3―11―9
                                                  内 田 康 男
                                               ☎0493―73―1559
                                               ajyvl71422@yahoo.co.jp

     前略 突然お問合せしてご迷惑をおかけいたします。
     私は、中学生の頃から地元の歴史研究を始め、その後地元小川町役場勤務の傍らも続け、退職後も現在に至るまで続けて今年で51年目となりました。
     さて、最近当町の旧家に調査にお伺いいたしましたところ、同家は神道修成派第一教務支局であったことがあり、また邸内には金毘羅大権現奥の院の分祠が祀られていました。
     つきましては、下記に付きまして、ご教示賜りたくお問合せした次第でありますので、ご多忙中誠に恐縮ですが何卒よろしくご対応くださいますようお願い申し上げます。

    問合せ内容
     ⑴神道修成派第一教務支局は、埼玉県の史料によりますと、もともと入間郡山田村字下寺山1番地(現川越市寺山)にありましたが、大正2年11月、竹沢村(現小川町)大字靱負の竹沢家に移転し、昭和9年12月に廃止されたようです。しかし、残念ながら第一教務支局の活動については資料が無く明らかではありません。つきましては、教庁の方に第一教務支局に関する史料等が残されているのでしょうか。もしあるとすれば、可能の範囲でご教示頂けますでしょうか。
     ⑵小川町には、明治の頃から、金毘羅大権現奥の院(現徳島県三好市)を信仰する「一千人講社」が結社され、大正2年頃、その講社の社長竹沢家が中心となって遥拝所を当地に建設しました。昭和9年の地元新聞によると、「金比羅大神は神道修成派埼玉県第一教務支局竹沢氏によって奉行(※意味不明)され」と報じられています。その後、戦時中に社殿は取り壊され、内宮だけを神道修成派第一教務支局であった竹沢家で保管し、昭和51年に社殿を再建し現在に至ります。つきましては、神道修成派と金毘羅大権現奥の院を信仰する関係が分かりませんので、これらに関してご教示いただけますでしょうか。また、一千人講社は金毘羅大権現奥の院を信仰する一講社のようですが、同時に神道修成派の布教活動を行っていたと考えてよろしいのでしょうか。このことについてもお分かりの範囲でご教示頂けますでしょうか。
     ⑶当町上古寺の不動尊境内に昭和15年に「神道修成派埼玉日本武講社長」が建立した石燈籠があります。
      この埼玉日本武講社に関する史料若しくは、神道修成派の講社名簿等により小川町域の講にその他の講があったのでしょうか。可能の範囲でご教示頂けますでしょうか。
      ※小川町域の大字名、小川、大塚、下里、角山(以上旧小川町)、腰越、青山、下古寺、上古寺、増尾、飯田(以上旧大河村)、原川、笠原、靱負、木部、勝呂、木呂子(もともとは比企郡及び男衾郡に所属、旧竹沢村)、上横田、下横田、中爪、奈良梨、能増、高見、高谷、伊勢根(以上旧八和田村)、西古里(大里郡寄居町から編入)

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