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所在地
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埼玉県さいたま市盆栽町377
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電 話
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048-663-7928
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御祭神 |
天祖参神-参鏡
(みかがみ・天御中主神、高皇産霊神、神高産霊神)
-あまつみおやもとのちちはは
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教典 |
實行教神拝御恩禮詞(遥拝詞、御恩禮詞、祖霊日拝詞)
教訓謡集(おしえうたあつめ)
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創始者 |
不二道の開祖は長谷川角行(1541〜1646)
實行教の教祖は柴田花守(1809〜1890)
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儀式・行事 |
春秋大祭(4月第3日曜・11月23日)
春季大祭(4月の第3日曜日)
秋季大祭(11月23日)
神衣祭(春秋大祭の前日)
祖霊祭(春分、秋分の日)
富士登拝(7月末前後)平成8年は道祖長谷川角行霊神350年祭を4月17日に執り行った。平成21年には教祖柴田花守咲行三生の生誕200年記念祭を4月19日に行った。
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後継者 |
不二道統第二世 黒野日行日玵(くろのにちぎょうにちかん)
第三世 赤葉澰行玵心(あかはれんぎょうかんしん)
第四世 森月行甑仲(もりけつぎょうそうちゅう)
第五世 伊藤食行身禄(いとうじきぎょうみろく)
第六世 伊藤花子一行(いとうはなこいちぎょう)
第七世 伊藤参行六王(いとうさんぎょうろくおう)
第八世 小谷禄行三志(こたにろくぎょうさんし)
第九世 徳大寺参行三息(とくだいじしんぎょうさんそく)
第十世 柴田咲行三生(しばたしょうぎょうさんしょう)(實行教初代管長)
第十一世 鵜殿中行三親(うどのちゅうぎょうさんしん)(没後道統に拝列さる)
第十二世 柴田忠行三恕(しばたちゅうぎょうさんじょ)(實行教二代管長)
第十三世 柴田中行三守(しばたちゅうぎょうさんしゅ)(實行教三代管長)
第十四世 柴田謹行三美(しばたきんぎょうさんび)(實行教四代管長)
第十五世 柴田辰行三禮(しばたしんぎょうさんれい)(實行教五代管長)
現在は不二道統第十六世、實行教六代 柴田尋之(しばたじんぎょう) |
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教 史 |
實行教の前身は不二道である。その不二道は富士講と呼ばれた富士信仰者の多くの集まりの一つであった。不二道の開祖は長谷川角行で18歳の折、生地長崎を出て諸国巡拝の途につき富士山を中心に大行を勤め、天寿106歳の生涯を祈りによる『戦なき世の実現』に心血を注がれたと伝えられる。
富士西麓で修行中に、武田の残党に襲われた徳川家康を人穴に匿ったのも、この人物により戦なき世が訪れると確信されたものと云われる。中興の祖は第五世伊藤食行身禄で、伊勢より江戸に出て商いが成功したが、すべての財産を人々に分け与えた後、身は一介の油行商として道の教えを広めた。63歳のとき、富士に入定し1ヶ月の断食行の末、多くの教えを残し帰天された。この事実によって当時の富士講は隆盛を迎える。
みろくの世の到来を説き富士登拝を勧め江戸庶民の共感を得たのであった。(昭和に入り、作家新田次郎は食行身禄を主人公に小説『富士に死す』を表わしている) 第八世小谷禄行三志は武州鳩ヶ谷の出身であるが富士の教えを全国に広めた。二宮尊徳の農村改革にも寄与している。
京都では公家社会に入り富士の教えを説き、不二道の行者三志の名は高まり第九世徳大寺参行三息は公家出身で僧籍にあったが三志の教えを受け入信した。
禄行三志は1841年に没するが、1847年(弘化4年)不二道信者は『みろくの世』が到来している事を天子・将軍に知ってもらい、世が改まるべきことを願い『不二道御取用願立』を直訴したが、却って奉行所の取り調べの結果、不二道禁止を受けるに至る。
封建時代にあって富士道は食行身禄の説いた四民同等男女平等、更には職業に上下貴賎はなく、すべてが分業として携わっているに過ぎないとし、やがて世が改まると信じてきた。
實行教の教祖、柴田花守咲行三生は1809年肥前小城の藩士の子として生まれ、6歳にして藩校に入学、元服後、藩主の命により西洋医学の伝習生としてシーボルトの高弟で眼科医の高良斉に師事。その後、病を得て帰宅した為にシーボルト事件に巻き込まれる事はなかった。
良斉師の依頼で日本の動植物の模写をシーボルトに手渡していたのである。
18歳の折、小谷禄行三志が長崎に布教の為来るや入信師事する傍ら、神道・佛教・儒教を学び、国学・蘭学・詩歌・書画も修めた。幕末の志士とも交わり、長崎丸山花月では端唄『春雨』を作詞し当時の憂国の心を世に残した。
時代は明治に移り、富士道を神道化する方向に進み、明治11年教名を實行社とし、明治15年政府の認可を得て神道實行教の初代管長となる。
本庁を東京牛込区東五軒町に置き、山岳信仰にとどまらず、我国固有の惟神の道を教えのうちに展開し布教活動を本格化した。
柴田花守没後、長男柴田禮一(1840−1920)が管長を世襲。
1893年米合衆国シカゴで開催された万国宗教会議に神道家として唯一人出席し、装束を着し、正面に富嶽の掛軸を掲げて演説し、日本神道を古事記から説きおこして世界に紹介した。
また、各国の軍備全廃とそれに代わる世界協同の国際警察軍創設と各国連合の国際裁判所設置を提唱し、世界平和の具体案を披瀝した。
帰国後は宗教者の協力を唱え、神道同志会には積極的に参画した。柴田禮一の長男孫太郎(1871−1939)は、東京帝国大学でドイツ語を学び、久しく陸軍士官学校でドイツ語教授の傍ら神道を修め、父没後、管長を世襲。孫太郎の長男道守(1900−1995)は、昭和14年管長を世襲し、戦災で消失した本庁施設を大宮(現さいたま市北区)に移転させ復興に尽力した。
現神殿は平成2年(1990年)に教信徒のご寄進などで完成した。道守の次男柴田辰彦は昭和55年代表役員なり、先代の帰幽後に管長を世襲した。現在は辰彦の長男柴田尋之(1974生)です。
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教 義 |
万物の根源と信仰する天祖参神及びその分魂鎮座の霊嶽である富士山を崇信し、神人合一の霊境を体認して死生を申明し誠心をもって實の行に励み、宝祚の無窮と万人の福祉を祈請するにある。
開祖の垂示に基づいて一切の恩に報謝し、實の行を修め、惟神の大道を宣揚することを本旨とし立教の原点とする。毎日、神拝御禮詞を奏上し心身を清め祖先追慕の念を強めること。
日頃は親孝行。
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祭式と祈り |
春秋の例大祭は明治の立教以来我国固有の祭式を執り行っている。拝は二拍子とし祓詞(大祓詞)を奏上する。そして遥拝詞に続き御恩禮詞を奏上した後、教訓謡(おしえうた)を唱和する。教訓謡は教祖柴田花守が著したものが主で、題は生立(おいたち)・教導・道祖御恩禮・霊前等二十数種あって、大祭では道祖御恩禮を全員で唱和する。
實行教は人生を行の場として、行名修行を行う。
道祖は角木の上で爪先立ちの難行され角行と称され、以降世々の尊師は日行、澰行、月行、食行、一行、参行、禄行、参行、咲行、忠行、中行、謹行、辰行の行名を持ちその名にふさわしい修行をされた。
行名とは修行努力の方向を示す名前であり、行名修行するには祈りが必要である。行名修行が満足に達成せられると三名が授与される。三名は修行の成功を称えるものである。霊代にはこの行三名が記される。三名は天祖参神の思召に近づいたという意がある。
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