所在地
福岡県北九州市小倉南区
徳力5-10-8
電 話
093-962-4537
公式HP
ご祭神
1.天在諸神(あめにますもろもろのかみ)
(主祭神・信仰の神。古事記頭書からの所載順)
天之御中主神・高皇産巣日神・神産巣日神・宇麻志阿志詞備彦遅神・天之常立神・国之常立神・豊雲野神・宇比遅邇神・須比遅邇神・角杙神・活杙神・大戸之遅神・大戸之弁神・面足神・綾惶根神・伊邪那岐神・伊邪那美神・天照皇大神、以上18柱を総称して称える。
 1)最初の5柱である別天神は、人に先
  祖、両親を通して霊魂を分け与える。
  次の10柱は、水土木火金の働きで、
  人に身体を造り与える。
 2)配祀諸神に、その特性を活かして神徳
  を下すように命じる。

2.配祀諸神
(配祀神・尊敬・働きの神。古事記所載)
月夜見神・素盞嗚神・豊受媛神(俗に稲荷大神)・経津主神・武甕槌神・大国主命・少彦名神・祓戸大神・野見宿禰命・巫部大祖忍穂見命・饒速日命・教祖経彦命・産須根大神・天神地祇、以上14柱を総称して称える。最後の天神地祇(てんしんちぎ)は、その他総て、他教の神仏も含む。
 
現管長
大教主・代表役員
五代 巫部 祐彦(教祖の曾孫)
教 典

神典(記紀・延喜式・風土記・万葉集など所載)
教祖の教書・医学書・日誌・教歌等多数
教示録(教戒・教語等のまとめ・四代管長)
神理入門・人体本言考等解説書多数

 
創始者
佐野(巫部)経彦 巫部は姓名
 (佐野は江戸時代に使われた氏名)
 天保 5(1834)年 2月16日生誕
 明治39(1904)年10月16日帰幽
儀式・行事

春秋大祭 祖霊祭 等

 
後継者

二代 巫部 伊豆彦(かんなぎべ いずひこ)
三代 巫部 珍彦(かんなぎべ うずひこ)
四代 巫部 健彦(かんなぎべ たけひこ)
五代 現管長 巫部 祐彦(かんなぎべ さちひこ)

教 史
 本教・巫部家の初代は、邇々芸命(皇室)の兄で物部氏と高祖を同じくする饒速日命。
 教祖はその77代、現管長は81代にあたる。
 皇室は政治、物部はそれを助け神事の役割を与えられた。
 2代宇麻志麻知命(神武天皇)・7代以香色雄命(開化・崇神天皇)・8代十市根命(垂仁天皇・物部姓となる・遠祖)。
 10代五十言宿祢命(言霊学大成・宗祖)
 12代伊美岐連命(履中天皇・全国疫病平癒・現在の徳力へ・先祖)。
 16代兄奇宿祢命(雄略天皇の病気平癒・巫部の姓と日月五星の紋章・開祖)・31代連麻呂命(伝書集成・中祖)。
 51代太郎太夫高光命(元寇の時異賊退治祈願・御神鏡と共に大巫司・大宮司を賜る)・56代右京介重興命(大友・毛利・杉の大名教化)。他、代々神術・医術等平和的手段で貢献するに興隆し、武力で行うに衰退する歴史を繰り返す。
 教祖経彦は興隆した他の先祖と同じく、古神道を当時の言葉で大成し一教独立した神理教の教祖であるが、本教の創始者ではない。
 幼少より父経勝の寺請制度等で抑圧された神道復興の希望を受け勉学に励む。
 西田直養に古学の流れである国学を(17才)、錦小路家に古医学(後の皇国医学)を学ぶ(19才)。
 直養を師と仰ぐ吉田松陰とも通じ、高杉晋作・平野国臣・野村望東尼等と共に勤王活動も行う。
 活動への牽制で小笠原藩から他行停止の沙汰があり、又家業を悟ったこともあり、文久元年(1861・28才)家伝の国学・医学も研究しながら医師として活動しする。
 門前市をなす程に多忙の中にも貧富の差なく、夜は往診もする等貢献するが、“医学”による人助けに限界を感じ、慶応元年(1865・32才)“教え”による救世安民の道の為、医業を休み教義の大成・著述に専念する。
 第2次長州戦争に伴う小倉戦争で軍医を勤めた後、著書等から慕い来る門人に教えを伝え、明治7年(1874・41才)明倫学校を設立する。
 明治9年10月16日、天在諸神から明星代神となり世の為人の為に尽す使命を告げられる。
 明治12年教導職試補、翌13(1880・47才)年7月19日内務卿松方正義により開教(神理教本社)の許可。
 この年より皇族・政府枢要者・碩学大家との交流も盛んになり、有栖川宮幟仁親王・熾仁親王には殊に可愛がられ、何度もお会い戴く。
 明治19(1886・53才)年依頼を受け、本教の独立運動と平行して、門司港開発手続きが完了。
 直後に横領されるが、後に功労もされる。
 明治27年(1894・61才)内務大臣野村靖により独立を認められる。
 明治32年(1899・66才)7月1日より21日間、萬国平和祈祷を行う。
 明治39年(1906)10月16日、数え73歳にて帰幽。
 著書・日誌480余1千巻余、教歌約3万首。
 平成22年開教130年・平成26年独立120・教祖生誕180年・平成28年教祖昇天110年の式年大祭(10年毎)を執行し、万民安穏・世界平和を祈る。
教 義
1.古神道
 本教(神理教)は上の教史を持ちながら、明治初期に教団として成立した神道の一派である。
『敬神尊祖(大自然を神と敬い、先祖を尊ぶ)』という、人類の意識開化と共に伝わる『自然の信仰・本教』は、単純に見えながら一人或は少数の天才が創出した教えでなく、言語と同じく人類の叡智の集積である。
 原始的(プリミティブ)というより基本的(プライマル)な教えと今も拝礼の対象である神社という形は、日本にこそ色濃く遺っている。
 それは他教・他国にない、祓・祖先崇拝・万世一系の天皇家の3つが原因だと考えられる。
 神道という名は他教が日本に入ってから付けられたが、本教はその中でも古・純・復古神道と位置付けられる。
 古神道を探るには伊勢神道に始まる古学や江戸初期に表向きは神道を主にしない形を取って始まる国学、又巫部家の伝書から研究される。
 国学は日本に他教が入る以前の習俗・文化・信仰を、巫部家にも伝わる言霊学(字源{字の象形}・本言{その言葉の持つ本来の意味}から探る)から純粋に研究するもので、決して民族主義や排他主義ではない。

2.古医道(皇国医道)御神宝
 本教には古神道と同じく、漢方・蘭方とは違い日本独自に伝わる古医道も家伝として伝わる。
 教祖は錦小路家に古医道を学ぶと共に、家伝と融合して皇国医道を大成させ、明治17年4月に内務省から内外医術開業免許を得る。
 錦小路家に学んだ権田直助や皇室医事係も務めた井上頼?が著名。
 現代は医薬として行ってないが、その大系と言霊学とを併せて、古神道と共に教義の両輪となる。
 病気平癒等は神社と似た部分もあるが、より深い本質を持つ。
 即ち皇国医道の教えから、人体賀言という少し長めの祝詞や物部・巫部家に伝わる神宝を使う場合もある。
 後に述べる神葬祭・霊祭と共に、本教の特徴でもある。

3.御神宝(かんだから)
 物部・巫部家に伝わる十種神宝を、袋に包んだ物。本教の教師にその使い方と共に与えられる。

4.御霊符  同じく物部・巫部家に伝わる五芒星の神紋に、天在諸神の御神威と御教祖の御霊が籠められていて、患部に貼る等して傷病の因を祓い除く。

5.宇良奈比真伝
 同じく物部・巫部家に伝わる。
 神代文字の元となる天児屋根命より伝えられる町形文字を使う、占いの教本と占い木。
 教師の資格とは別に、志願により与えられる。

6.諸教義・神術
 この教義大系の中に、地相・家相・墓相・人相・性格判断・過去から将来の展望を始め、種々の教義・神術がある。

7.人は神(=自然)の子孫
 古神道では、人は神の分霊(ぶんれい)=霊魂を先祖・親を通して授かり、体は水土木火金の 神に造って戴く、神の子・子孫と考える。
 又霊魂は不滅で自分の子孫を見守ると考えることから、輪廻転生とは一線を画する。
 地獄(神道では黄泉)も行きっぱなしではなく、本人の反省と子孫の祭により罪が祓われ、天国(神道では日の若宮)に還り昇ることが出来る。
 神道の罪は、原罪や業のように生まれながらの、しかも外(はず)すことの出来ない重荷ではなく、神祖からのお知らせであり、自分の間違いに気付けば祓われ罪は解かれると考える。
 神祖に助けられる部分では他力であり、自らの反省や祈りという部分では自力である。

8.天神を祭り配祀神の御利益を戴く
 祭神からも分かる様に、天在諸神は信仰の神という意味では一神教である。
 そして配祀諸神14柱は尊敬・働きの神という意味では、14柱目の天神地祇に他の教派の神仏も含む多神教である。
『祈るとは 願うにあらず 我が心
   明りの入るを 言えるなりけり(教祖)』
 祈るの本言は、アカリ(明り)・イル(入る)で、神祖と人類の幸福を目指す波長を合わせることで、自然に幸福と真の自由を得ると考える。
 神や祖先にとって、人類や子孫が繁栄することが幸せであり安心で正に天国に居るに等しい。
 従って私達は幸せを得るべきであり、その為には自分の心を本来の神の心として磨(みが)き、より大きな神の心を受け入れる実践が必要となる。
 そうすることで、願わずとも神徳を戴き幸せになるという教え・生活宗教である。
 この考え方を元にした大系(霊魂観・言霊学・陰陽五行等)・神術(神宝・占い等)・祭式・健康法等が、ここには紹介しきれないものの多くある。
祭式と祈り
 祭式は神社神道と基本的に変わらないが、歴史の遺る神社と同じく、家伝に天正14(1586)年の有職古実の巻物が伝わり、独自の祭式もある。
 神饌物(お供え)は、明治初期の熟(調理)饌から生(そのまま)饌優位の変遷に悖り、神酒を1位に置く(神社の多くは米)。八つ足(お供えの棚)の前後が反対等の違いもある。
 神社は笏板(先が尖ってない)を使うが、本教は剣を木製にしたままの剣板(神道墓と同じように先が尖る)を使う。
 祭事も形は神社神道と基本的に変わらず、正月の初詣に始まり、春秋の大祭・6と12月の大祓・大元稲荷神社の初午と夏越祭等が行われる。
 本殿では初宮や交通安全等、又出向しての地鎮祭や上棟祭等を行う。
四魂論と拍手
 拍手は所謂短拍手ながら、4回なのは明治政府の神社神道が2回との取り決めであった。
 戦後の自由化でそれぞれ元に戻ることとなったが、多くの神社は幕末までの歴史を忘れたか2回のままが多い。本教は元々4拍手であった。
 それは、霊魂観で四魂論を採っていることから、拍手の音霊による四魂の祓い・活性の意味もある。
 四魂とは、幸魂・和魂・荒魂・奇魂で、喜怒哀楽のような性格とともに、それぞれが生前と帰幽後の働きを持つが此処では割愛する。
葬儀・霊祭
 家伝の神葬祭・霊祭の方法が伝わる。
 有り難いお経を上げるとか、生前の功績を祝詞で称えるというより、上の四魂論から、それぞれの霊魂の働きを活かし、祓いと活性化を目的とした効率的な祝詞を奏上する。
 例えば葬儀の時に奏上する霊魂安定詞や帰幽奏上詞であり、霊祭の時に奏上する天神奏詞や霊祀霊前告詞、又改祭・帰教時にも奏上する神理賀詞がそれである。
 多くの神社との違いは、先祖祭を行うことから春秋の祖霊祭やお盆の時期には穂見大祭を行うことが教徒の家では頻繁である。
 又各家(宗旨が神道の教徒)を回り穂見祭や初穂見祭、帰幽して50日までの毎10日祭、50年までの1・3・5・10・15・20・30・40・50年という、霊祭を行う。
言霊学
 物部・巫部家に古来から伝わる教え。
 本言(その言葉の持つ本来の意味)と字源(その字の形からの本来の意味)の研究・解説書が伝わり、古神道の悟りが開かれる元となるが、此処では割愛する。
 日本独自の陰陽五行説から『吾(わ)が心清々し(須佐之男命の故事・陽)』と『トホカミエミタメ(遠つ神、笑(え)み給え、方角や色や五臓等・陰)』、『天在諸神守り給へ…(陽)』と『みたまものおりすがかみはよせせて(御霊降り、清神寄せ来る・陰)』等の言霊学にも通じる唱え言葉がある。
 教紋も雄略天皇に戴いたと伝わる『日月五星の表紋(陽)』と『トホカミエミタメの裏紋(陰)』がある。